月の涙をその指に    (続・月の涙を鍵として)



「寒いですね・・・」

窓際に立ち、外を眺めていた少女のストールを巻いた肩が小さく震えた。
自分がソファから立ち上がって近づいた気配を感じても降り向こうとしないほど、
窓の外に何か興味を引くものがあるのかと、背中から細い身体を抱き込みながら
同様に外へと視線を向けても、重たげな雲が低く広がるばかりだ。

「きっと・・・もうすぐ雪が降りますよ・・・この寒さなら・・・」

ぽつりと落とされた声音がひどく頼りなく響いて、腕の中の人が
今にも消えてしまいそうな不安から抱き締める力を強めた。
部屋の中はヒーターがほど良く効いて春のように暖かいというのに、
どうしてか少女の身体だけは冬の屋外にいるように冷え切っている。

「そんなに寒いなら、窓の近くなんかにいなければ良いじゃないですか」

自分の声が僅かばかりの苛立ちを滲ませた事を自覚しても、改める気にもなれない。

ようやく昨年のクリスマスに、永い永い刻を越えて想い続けたこの少女を取り戻した。
それ以来新年に互いが里帰りした少しの間を除けば、一時たりとも離れる事は無かった。
正しくは自分が離す事が出来なかったのだと総司は自覚している。
遠い過去の記憶を取り戻して時間の経っている自分とは違い、
セイは未だ現在と過去の中でとまどい混乱する事が多いからだ。
一瞬でも眼を離せばこの少女にとって誰より恋しい昔に生きた武士に、
連れ去られてしまうような不安が拭えない。
時折総司の中にあの頃の面影を探すように、じっと眼を凝らしている姿が
セイの中の迷いを物語っていた。
今も空とも風景ともいえない曖昧な場所に視線を向けたままの少女は、
何を想っているのか。
昔だったら手に取るように理解できた彼女の内心が、今の自分には量り難い。
それが不安でもどかしく、掴めない心を補うようにと、その身を傍に置かずにいられない。



「何を・・・考えているんですか?」

「沖田先輩、最近その言葉ばかりですね?」

抱き潰すほどの力を込められて、ようやくセイの意識が総司の元へと
戻ってきたようだ。
その気配を察して腕の力を僅かに緩める。

「貴女の事を知りたいからに決まってるじゃないですか」

心を乱す苛立ちを誤魔化すように、何度も答えた言葉をまた繰り返すと
セイがくすくすと笑いながら顔だけで振り返った。

「沖田先輩らしくないですねぇ」

来るもの拒まず去るもの追わず、常に一定の距離を保って周囲と接するのが
現世での総司のスタイルだった。
求めるものは一つだけ。一人だけ。
それ以外に深い係わりを持つ事は避けたかったし、まして恋情絡みのゴタゴタは
欠片ほども身の回りに置きたくなかったのだ。
たった一人、時を越えてまで得たかった人以外はどうでも良かったのだから。

そんな重すぎるほどの気持ちを伝えるにはまだ早いと、総司は口にしない。
ただセイの長い黒髪を纏め上げている銀のバレッタに口付けた。
それこそが妄執とも言える自分の想いの結晶だから。

「愛する人が何を想っているか、気にならないほど薄情じゃないですよ?」

耳元で囁かれた言葉にセイの身体が小さく震えた。
イタズラじみた行為の中に、埋み火のような熱を感じたからだ。

「沖田先輩っ!」

「さっきの問いに答えてくれないなら、このままベッドに連れて行きますよ?」

腕の中から離さずに済む最も良い方法だとばかりに、総司は隙を見つけては
セイとの情事に溺れようとした。
華奢な身体に負担をかけている事は重々承知していても、焦燥はたやすく
理性を押しやって身体の熱を煽るのだから。
自分でも御しきれない総司の感情を、セイはどこかで感知しているのか
大きな溜息を吐き出して再び空へと視線を向けた。

「雪が降ったら・・・どう感じるのかなぁ、って考えてたんです」


先の世で、総司と出会った春も、隊の皆で笑いさざめいた秋も、
静かな哀しみの中で愛しい人を看取った初夏でさえ、
記憶の中にどこか懐かしい温もりを残しているというのに冬だけは違った。

冬の記憶は北の果ての白い虚無。
先の見えない戦のせいではなく、自分の中が全て無である無感覚。
たったひとつ残っていた感情が、常に自分に囁きかけた。
さびしい、さびしい、と。


「痛いとか寒いとか辛いとか、そういう感覚はただの一つも無くて、
 笑っていても怒っていても“そうするべきだ”って誰かに指示されて
 やっているような、現実味が無かったんです」

胸の痛くなるセイの言葉に総司は唇を噛むしかない。
どこまでも共に連れて行って欲しいと泣いたこの人を生に押し留め、
それを条件に病の身の傍にいる事を許したのは自分だからだ。
そして最後の最後に忘れる事は許さぬとばかりに、自分の恋情だけを残して逝った。

酷い男だと恨んだだろう。

「でも、貴女の傍には土方さんがいたんじゃないですか?」

この人の記憶の封印を解いたほど深い繋がりを持っていた男が、北の地では
常に身近な存在として、心も身体も守ってくれたはずではないのか。
覗き込むようにして尋ねた総司の言葉に、セイは寂しげな笑みを浮かべた。
こんな儚く透明な微笑みも過去の少女は持ち得なかったものだ。
また、総司の胸に不安の色が濃くなった。

「確かに副長はいつも傍に置いてくださいましたけれど・・・」

最愛の半身を失った者同士だった。
誰より信頼し血の繋がりよりも固く魂が結ばれていた友を。
女子としての自分も武士としての自分も、全てで恋い慕っていた男を。
無理矢理引き裂かれた心は他の何であろうと癒される事などありえない。
それを知ってるふたりだった。

「一人と一人。それだけです。けして温もりを共有する事は無い。
 相手の痛みは理解できると同時に、それが癒えぬ事も理解できる。
 ただ、共にいただけです」

セイを抱く総司の腕に再び力が込められた。

そんなはずはない。
確かに土方は半身である近藤を失った事で絶望を知っただろう。
けれどあの男はそれだけに浸りきれる人間ではない。
きっと失った弟分を忘れられず心を閉ざしてしまった少女の面に、
どうにか笑みを取り戻そうと苦心したはずだ。
優しい男だから。
傷ついた心をこれ以上追い詰める事の無いように、細心の注意を払いながら
繰り返し繰り返し働きかけたのだろう。
けれどそれも無駄な事だとどこかで悟ったのかもしれない。
そうでなければ終焉に迎う激戦の地に、最後までこの人を置きはしなかっただろうから。
その心残りが土方の中に過去の記憶を残し続ける原因となったとも思えた。

ひたひたと切なさが総司の胸を押し包んでいった。

「冬は・・・一人きりだという事を、他の季節よりも強く感じるのかもしれません。
 温かな部屋の中にいても、誰かと共に笑っていても、孤独を忘れる事ができない。
 それぐらいなら光も音も吸い込んでしまう真白い雪の中に一人でいた方が、
 よほど心が楽でいられました」

深い深い雪の中、静かに照らす月を見上げて。
深々と降り続く雪を纏って。
たった一人立ち尽くす細い背中が、閉じた総司の瞼の裏に浮かんだ。

「・・・・・・そんな寂しい記憶しか無いのに、雪を待っているんですか?
 貴女は・・・」

ここに自分はいるのに。
失われた武士の面影を追いかけて、ひとりぼっちになろうとするのか。
息さえできないほどの苛立ちに、セイの視界から窓の外を隠そうと
カーテンに手を伸ばした時。

「あ、雪・・・」

小さな響きに総司も反射的に眼を向けた。

きらきらと光を反射して氷の粒が落ちてきた。
それは見る間に大振りな牡丹雪に変わってゆく。
ひらひら、ひらひら。
まるでハクモクレンの花びらが風に散るように。
穢れ無き白い羽が大気を染めるように。
清楚さを内包しながらも華やかに舞い落ちてゆく。

――― ほう・・・

腕の中から聞こえた溜息に眼をやると、セイがほんのりと微笑んでいる。

「セイ?」

「雪って綺麗だったんですね・・・。寒いから、こうやって沖田先輩の腕が
 温かい事もよくわかる。ひとりじゃないんだ、って思える」

その言葉に驚いて力の弱まった総司の腕の中で、セイがくるりと振り返った。
ほっそりとした腕が総司の首に伸ばされて、ぎゅうと抱きついてくる。

「沖田先輩はここにいる。温かな腕が私を抱き締めてくれる」

「ええ。ええ、そうですっ! ずっとここにいます!」

いつまでたっても気の利いた事の一つも言えない自分が悔しかったが、
精一杯の想いを込めて総司は頷いた。

「雪が積もったら、一緒に歩いてください。手を繋いで」

「ええ。抱き上げても負ぶってもいいですよ。私は貴女から離れないから」

額を合わせて告げる総司の言葉にセイが笑った。
それは儚さを感じさせる透明なものではなく、幸せに染まった春の陽のように。

「そんな姿、さすがに恥ずかしいですよ」

「いいじゃないですか。これからずっと、そうやって過ごしていきましょう。
 春も夏も秋も冬も」

「ずっとですか?」

「ええ。病める時も健やかなる時も」

からかうように紡がれていた総司の声音が真摯な響きを宿す。
それに気づいたセイが、はっと表情を改めた。

「・・・沖田、先輩?」

「来週、貴女の家にご挨拶に行きましょう」

固まったように動こうとしないセイの腕を自分の首から外した総司が、
小さな手の平を持ち上げ口付けた。
その場所は左手の薬指。

「桜が満開になる頃に、ここに誓いの印を」

「・・・せ・・・」

大きく見開かれたセイの瞳から、雪にも負けない清浄な白珠が転げ落ちる。

「“沖田先生”も、“沖田先輩”も卒業しましょう。過去はもういい。
 私は貴女の未来が欲しい。貴女もそう願ってくれませんか?」

言葉よりも瞳に宿る想いの深さがセイの全てを包み込み、
孤独の中でひとりぼっち佇んでいた過去の自分さえも癒していった。

「はい、はいっ! はいっ!!」

それ以外の言葉は口に上らない。
明日をも知れない修羅の中ではなく、途切れる先を待つ庵でもなく、
明るい光に満たされた未来が今の自分たちにはある。
強く強く確かな鼓動を刻む胸に頬を押しつけて、セイは幸せを噛み締めた。



魂に刻まれた記憶は同時に傷をも深く残していた。
刻まれた傷は刻んだ者によってしか癒される事は無い。
ようやく全ての呪縛から解き放たれた二人を祝福するように
窓の外では花弁のような雪が降り続けていた。